2015年11月20日金曜日

表現の方向性

表現が内か外か。

自己完結なのか他者との共有なのか。

その他いろいろなものがからんで成り立っている。

そうして世間にある表現に注目してみると、

内向きで自己完結しているようでも

その内面に近い感情を持つ人が多ければ多くに受け入れられているし

外向きで他者との共有を望む表現であっても少数にし受け入れられないものがある。

自己顕示欲と自己承認欲求と内面の一般性のバランスがそうさせるのかも知れない。

在り方、生き方、暮らし方。そうゆうものと同じラインで

表現は存在しているように感じる。

むしろそれらを全部ひっくるめて表現か。

そう考えると自己を完全に確立した希有な自己表現ってのには

だれも共感できないように感じる。

音楽に限って今は、共感できるってものが流行しているけれど、

天地が引っ繰り返ってもヒットチャートにのる人個人にも

髪の毛の先ほどにも共通性は感じない。

じゃあどの部分に人は共感しているのか。

もしかしたらそれは存在意義や存在理由を求める心なんじゃないか。

どんな立場にいようとも、自己を確率しようとも

その道半ば、辿った痕跡をきっと表現に落とし込む。

自然と離れて久しい人間に、自然と共に循環する存在意義は

ただ生きるだけでは表現できない。

その余剰エネルギーと存在意義の確立を

すごく憧れてみているのか。

何に注目するかは人それぞれだけれども、このことを意識すれば

うたや音が少し変わるかもしれない。

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