僕はずっと、こどものころから大変なかっこつけであったと記憶している。
だからこそ同時に、結構なナルシストであったなと思う。
現実と、自分の見ている世界とのズレみたいなものを修正するために、
たくさん稚拙な嘘やごまかしを口にしていたように思う。
たくさん知ったかぶりもしていた。今もたまに無意識にいているかも。
僕から見た世界は、ふわふわと淡く薄い色で色づいていて、
その中で僕は、ふわふわと生きていた。
物心がついた、もしくははっきりと世界に色がついたような、
そんな気がした時からだろうと思う。
何もしらないことは悪だと。世界が一斉に僕を咎めだしたようだった。
それが僕をそんな風にしたのかも知れない。
今思えば、元々僕の持っていた純粋性や、完全性みたいなものを、
守りたかっただけなんだと思える。
それがだんだんと存在意義だったり、証明だったり、プライドに
成り代わってしまって、より世界を生きづらくしてしまった。
でも今は、すこしづつだけれど、元々持っていたものを思い出して。
もしくは取り戻して、素の人間となりつつある自分を省みると、
なんて失礼なやつなんだ!と自分でも驚いてしまう。
だから意識的に色んなものをコントロールして生きている。
世間のためではなく、自分のために自分の運転、もしくは操縦するような
ものなので、全く辛くはない。抑圧とはまた違うものなのだ。
おそらく、ちいさな頃の僕はなにもコントロールせず、自由だったんだと思う。
周りからすれば、めちゃめちゃ腹の立つクソガキだったわけだ。
今の僕は一人の親でもあるので、そんな子供を枠になんとか収めようってのは、
半分愛で、半分エゴであるけれど、ほっとくわけにはいかんなってのが、
ありありと分かる。それで子供に辛い思いをさせているかも知れないなと、
ふと思うことがある。
世間ってひとくくりに言ってしまうけれど、昔はそんな子供を放っておくような
ものでもなかったから、僕は本当に辛かった。せめて枠におさめようとするなら、
僕には理解できない領域の、歩んでいくべき道というものを、人生というものを、
指し示し、順を追ってはっきりと伝えてほしかった。
そうすれば、僕には見えないし、理解もできないし、あまり把握はできないなりに、
車の構造は分からなくとも、運転はできる、みたいな感じでもっと楽だったろう。
まぁだからといって、かっこつけやナルシストなのは変わらなかったかもなと思う。
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