2018年5月1日火曜日

かっこつけ

僕はずっと、こどものころから大変なかっこつけであったと記憶している。

だからこそ同時に、結構なナルシストであったなと思う。

現実と、自分の見ている世界とのズレみたいなものを修正するために、

たくさん稚拙な嘘やごまかしを口にしていたように思う。

たくさん知ったかぶりもしていた。今もたまに無意識にいているかも。

僕から見た世界は、ふわふわと淡く薄い色で色づいていて、

その中で僕は、ふわふわと生きていた。

物心がついた、もしくははっきりと世界に色がついたような、

そんな気がした時からだろうと思う。

何もしらないことは悪だと。世界が一斉に僕を咎めだしたようだった。

それが僕をそんな風にしたのかも知れない。

今思えば、元々僕の持っていた純粋性や、完全性みたいなものを、

守りたかっただけなんだと思える。

それがだんだんと存在意義だったり、証明だったり、プライドに

成り代わってしまって、より世界を生きづらくしてしまった。

でも今は、すこしづつだけれど、元々持っていたものを思い出して。

もしくは取り戻して、素の人間となりつつある自分を省みると、

なんて失礼なやつなんだ!と自分でも驚いてしまう。

だから意識的に色んなものをコントロールして生きている。

世間のためではなく、自分のために自分の運転、もしくは操縦するような

ものなので、全く辛くはない。抑圧とはまた違うものなのだ。

おそらく、ちいさな頃の僕はなにもコントロールせず、自由だったんだと思う。

周りからすれば、めちゃめちゃ腹の立つクソガキだったわけだ。

今の僕は一人の親でもあるので、そんな子供を枠になんとか収めようってのは、

半分愛で、半分エゴであるけれど、ほっとくわけにはいかんなってのが、

ありありと分かる。それで子供に辛い思いをさせているかも知れないなと、

ふと思うことがある。

世間ってひとくくりに言ってしまうけれど、昔はそんな子供を放っておくような

ものでもなかったから、僕は本当に辛かった。せめて枠におさめようとするなら、

僕には理解できない領域の、歩んでいくべき道というものを、人生というものを、

指し示し、順を追ってはっきりと伝えてほしかった。

そうすれば、僕には見えないし、理解もできないし、あまり把握はできないなりに、

車の構造は分からなくとも、運転はできる、みたいな感じでもっと楽だったろう。

まぁだからといって、かっこつけやナルシストなのは変わらなかったかもなと思う。

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